IHS(イエスの御名の略称、ラテン語 Iesus Hominum Salvator の頭文字)という三文字は、キリスト教の歴史において、単なる略号を超えた霊的な象徴として機能してきた。十五世紀の説教者フランチェスコ・ダ・パオラや、イエズス会の紋章を通じて広く知られるこの文字は、「人類の救い主イエス」という告白を凝縮した記号であり、創作と信仰が交わるあらゆる場所にふさわしい刻印である。
IHSベツレヘム修道会は、その名においてこの古い霊的遺産を受け継ぎながら、現代という時代の中で、信仰と芸術の深い結びつきを生き直そうとする有志の共同体である。本稿では、この団体の性格、目的、そして存在意義について、できる限り誠実に、かつ丁寧に記述する。
一、ベツレヘムという名前が持つ意味
「ベツレヘム」――ヘブライ語で「パンの家」を意味するこの地名は、ダビデの町として、そして何よりもイエス・キリストの降誕の地として、全キリスト教世界に知られる。神が人となり、飼い葉桶に身を横たえたあの夜の現実が、この小さな町の名前に永遠に刻まれている。
なぜ修道会の名にベツレヘムが選ばれたのか。それは偶然ではない。ベツレヘムは「へりくだりの場所」である。そこには王宮もなく、神殿もなく、律法学者の議論もなかった。あったのは、冷たい夜と、動物たちの息吹と、飼い葉桶に眠る幼子だけであった。神は最も貧しい場所を選んで、最も大きな奇跡を成し遂げた。
IHSベツレヘム修道会もまた、この精神に倣おうとする。壮麗な組織でも、権威ある機関でも、世に認められた団体でもなく、小さく、静かに、しかし確かに、信仰と創作の場として在ること。これが「ベツレヘム」という名の根底にある志向である。飼い葉桶から始まった救いが世界を変えたように、小さな創作の営みが、信仰という炎を静かに灯し続けることを願って。
二、芸術団体としての本質
IHSベツレヘム修道会を理解する上で最も重要な点は、この共同体が芸術団体であるということだ。宗教団体ではあるが、その活動の主軸は祭儀や礼拝の執行にあるのではなく、創作と表現という行為を通じた信仰の深化と伝達にある。
芸術と信仰の関係は、キリスト教の歴史において常に中心的な問いであった。ビザンティンの聖画(イコン)は、単なる装飾ではなく「色によって書かれた神学」であると言われた。ゴシック大聖堂の尖塔は、言葉では表現し得ない「高みへの渇望」を石によって表現した。ポリフォニーの教会音楽は、「沈黙の手前にある最も豊かな言葉」として神学者たちに評価された。バッハの『マタイ受難曲』は、一つの神学論文よりも多くの魂をキリストの御前に連れてきたかもしれない。
芸術は、論理が届かない場所に届く。理屈が硬直するところで、詩は息をする。概念が説明に疲れるところで、音楽は告白する。この事実を、IHSベツレヘム修道会は深く確信している。
だからこそ本会は、芸術を「信仰の手段」として位置づけるのではなく、芸術そのものを「信仰の一形態」として捉える。祈りが言葉を超えた対話であるように、真の芸術もまた言葉を超えた応答である。キャンバスに絵具を置く時、文字を紙に刻む時、音符を連ねる時――それらの行為はすべて、神への応答たり得る。それが意識的であれ無意識であれ、創造行為は創造主への回帰の動作を孕んでいる。
三、信仰復興と信仰創生という使命
IHSベツレヘム修道会は、その活動目的として二つの概念を掲げる。信仰復興と信仰創生である。これらは似て非なる概念であり、それぞれが重要な意味を持つ。
信仰復興――失われた根へ
信仰復興(renewal of faith)とは、すでにキリスト教の伝統の中にある者が、その信仰の根源へと立ち返ることを助ける営みである。現代の教会、特に西洋的文脈においては、信仰の世俗化、儀礼の形骸化、教義の希釈という問題が深刻である。長い教会の歴史の中で蓄積された神学的な知恵、霊的な伝統、そして芸術的な遺産が、現代においていかに軽視され、忘却されてきたかを、見る者は痛感する。
復興とは「新しいものを作ること」ではなく、「古いものを再発見すること」である。ニケア・コンスタンティノープル信条、カルケドン公会議の定義、教父たちの神学、修道制の霊性――これらは「時代遅れ」ではなく、時代を超えて有効な真理の表現である。IHSベツレヘム修道会は、創作という行為を通じて、これらの遺産を現代の言語で再提示することを目指す。
過去の信仰の遺産を掘り起こし、それを芸術という器に注ぎ直すこと。それが信仰復興における本会の役割である。
信仰創生――新しい土壌に種を蒔く
信仰創生(generation of faith)とは、まだ信仰を持たない者、あるいは信仰から遠ざかった者に対して、芸術と創作を通じて信仰の扉を開く試みである。
今日、教会の説教や宣教の言葉は、しばしば「信仰の内部の人々」にのみ届く言語で語られる。すでに信じている者への励ましとしては有効だが、信仰の外にいる者にはほとんど届かない。しかし芸術は異なる。美は、信仰を持たない者にも語りかける。感動は、理論的な議論に先行して魂を動かす。ドストエフスキーは「美が世界を救う」と書いた。これは誇張ではなく、芸術の人類学的な力に対する深い洞察である。
芸術を通じて信仰の入り口を作ること、創作物を通じて「この世界は意味を持つ」という直観を呼び覚ますこと、そして聖なるものへの渇望を静かに点火すること――これが信仰創生における本会の課題である。
四、宗教出版・メディア・コンテンツ制作という活動領域
IHSベツレヘム修道会の活動は、具体的には宗教出版、メディア、コンテンツ制作という三つの領域において展開される。
宗教出版
言葉は最も古く、最も耐久性の高い表現媒体である。書かれた言葉は、話し手が沈黙した後も語り続ける。パウロの手紙は二千年後もなお教会を養い、アウグスティヌスの『告白』は今も人々を神へと促す。本会は、神学的・霊的な文章の執筆と出版を重要な使命として受け止める。
対象となるのは、専門的な神学論文から、信徒向けの霊的読み物、祈り、詩、黙想文、評論、そして信仰と芸術の交差点を探求するエッセイまで多岐にわたる。それらは紙媒体においても、デジタル媒体においても、必要とあらば同時に展開される。
本会の出版物の特徴は、正統的な信仰への忠実さと、現代の読者に届く言語の探求の、両者を諦めないことにある。正統でありながら硬直せず、現代的でありながら軽薄でない――その張力の中に宿る言葉を生み出すことが、本会の出版的使命である。
メディア
二十一世紀において、信仰の伝達はもはや紙と説教壇だけに限られない。映像、音声、インターネット、ソーシャルメディア――これらは現代における「広場」である。パウロがアテネのアレオパゴスで語ったように、今日の宣教者は現代の広場において語ることを求められている。
IHSベツレヘム修道会は、これらのメディアを信仰と芸術の伝達の場として活用することを目指す。音楽制作、映像作品、ポッドキャスト、ウェブサイト、SNSを通じた発信――これらはすべて、現代における「パンの家」としての機能を担う可能性を持つ。テクノロジーは本質を変えない。十字架は十字架であり、感謝の祭儀は感謝の祭儀である。しかしその真理を伝える器は、時代とともに刷新されることが許される。
コンテンツ制作
コンテンツという言葉は、現代においてしばしば商業的な文脈で用いられる。しかし本会においてコンテンツ制作とは、より根本的な意味を持つ。それは「何かを産み出す行為」全般を指す。絵画、詩、音楽、映像、写真、デザイン、建築的考案――あらゆる創作の行為が、本会における「コンテンツ」の範疇に入る。
本会の会員は、それぞれの賜物と才能において異なる。ある者は文章を書き、ある者は絵を描き、ある者は音を奏で、ある者はデジタルの空間に構造を作る。それらの多様な表現が一つの共同体の中で響き合う時、単独の芸術家では生み出せない豊かさが生まれる。アンサンブルが独奏を超える瞬間があるように、共同体的な創作は個人的な創作を超える次元を持ちうる。
五、有志による非営利活動という在り方
IHSベツレヘム修道会は、いかなる宗教的権威機関からの正式な認可も受けていない有志非営利団体である。この事実は、本会を貶めるものではなく、むしろ本会の性格を正確に表すものとして誠実に開示されるべきものである。
認可なき自由と誠実さ
教会の正式な認可を持たないということは、本会が教会の権威に反するということを意味しない。本会はカトリックの正統的な信仰を基盤とし、教会のマジステリウムを尊重する。しかしその活動は、教会の制度的な傘の下でではなく、信者としての個人的な責任と自由において行われる。
カトリック教会の歴史において、認可された修道会や組織の外で生まれた霊的・芸術的な運動が、後に教会全体を豊かにした例は数多い。アッシジのフランシスコは最初、正式な認可なしに始めた。多くの芸術家、神学者、霊的著述家が、制度の外で始め、後に制度の財産となった。正式な認可は重要だが、それはすべての活動の前提条件ではない。
本会は、認可なき団体であることを隠さず、また認可があるかのような印象を与えることもしない。これは知的誠実さの問題であり、信仰者としての誠実さの問題でもある。
有志という言葉の重み
「有志」という言葉は日本語において、多少軽いニュアンスで用いられることがある。しかしその本来の意味は深い。「志を有する者たち」――それが有志である。本会の会員は、給与を得て活動するのでも、義務として参加するのでもない。信仰と芸術への志を共有することによって集まった者たちが、自らの時間と才能と資源を、この共同体の使命のために自発的に捧げる。
ここに、本会の脆弱さと強さが同時に存在する。脆弱さとは、経済的・制度的な基盤が薄いことである。強さとは、義務ではなく愛によって動く共同体は、外部の支援がなくとも内部のエネルギーによって持続し得るということである。愛から発する行動は、疲れを知らない。少なくとも、疲れを知っても立ち上がる力を持つ。
非営利という選択
本会の活動は、経済的な利益を目的としない。これは理想論ではなく、活動の根本的な方向性の問題である。信仰と芸術の統合を目指す活動が、市場原理に従属する時、しばしば本質が失われる。売れるものを作ることと、真実を表現することは、常に一致するわけではない。
非営利という選択は、本会の活動が「何が売れるか」ではなく「何が真実か」「何が美しいか」「何が信仰を深めるか」という問いによって方向づけられることを保証する。それは経済的な豊かさを諦めることを意味するが、別の豊かさ――使命の純粋さという豊かさを選ぶことを意味する。
六、普遍性という志向
IHSベツレヘム修道会は「普遍的な創作団体」であることを自らの性格として掲げる。この「普遍性」という語は、カトリック(catholicos=全体的な、普遍的な)という言葉の精神に連なる。
本会の活動は、一つの民族、一つの言語、一つの文化、一つの地域に閉じることを目指さない。信仰は本来、すべての文化と時代を超えて普遍的な真理に根ざしている。芸術もまた、真の芸術は特定の文化を超えて人の魂に届く力を持つ。この二つの普遍性の交差点に本会は立とうとする。
日本という土壌において活動しながら、イタリアの芸術的・霊的遺産に触れ、英語圏の神学的議論に耳を傾け、ラテン語の祈りの伝統を受け継ぐ――これは矛盾ではなく、普遍性の具体的な実践である。教会は一つであり、芸術は一つの人類に向けられている。
七、小さな始まりの神学
本会の現在の規模は小さい。有志が集い、志を語らい、創作の方向を確かめながら、少しずつ歩みを進めている段階にある。この小ささを恥じる必要はない。むしろ、この小ささの中にこそ、本会の可能性が宿っている。
からし種の譬え(マタイ13:31-32)において、イエスは「天の国はからし種一粒に似ている。それは種の中で最も小さいものだ。しかし成長すると、他の野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」と語った。これは量的な成長の約束ではなく、神が小さなものを通じて大きな働きをなさるという、創造の論理を示す言葉である。
IHSベツレヘム修道会は、この論理の中に自らを置く。今は小さい。今は少ない。今は弱い。しかし、種の命は種の大きさでは測れない。神は小さな場所から大きな業を始めることを愛する。ベツレヘムがその最も輝く証拠である。
結びに
IHSベツレヘム修道会は、完成した組織ではない。それは一つの問いであり、一つの志であり、一つの始まりである。信仰と芸術が本当に深いところで結びついているという確信、そしてその結びつきを創作という行為を通じて生き、表現し、伝えるという使命が、この共同体を支える柱である。
認可はなく、資金は乏しく、人員は少ない。それでも志がある。愛がある。創ろうとする意志がある。そして何よりも、この使命を最初に委ねてくださった方への信頼がある。
それで十分である。それ以上は、神がなさる。
飼い葉桶から始まった救いが世界を変えたように、小さな創作の共同体が、時代の信仰に一筋の光を灯すことができるなら、それ以上の望みはない。
イエスの御名において。IHS。
IHSベツレヘム修道会は、いかなる宗教機関・教会機関からの正式な認可も持たない有志非営利団体です。本会の活動はカトリックの正統的信仰に基づきますが、教会の公式機関ではありません。すべての活動は会員の自発的な参加と献身によって支えられています。
IHS(イエスの御名の略称、ラテン語 Iesus Hominum Salvator の頭文字)という三文字は、キリスト教の歴史において、単なる略号を超えた霊的な象徴として機能してきた。十五世紀の説教者フランチェスコ・ダ・パオラや、イエズス会の紋章を通じて広く知られるこの文字は、「人類の救い主イエス」という告白を凝縮した記号であり、創作と信仰が交わるあらゆる場所にふさわしい刻印である。
IHSベツレヘム修道会は、その名においてこの古い霊的遺産を受け継ぎながら、現代という時代の中で、信仰と芸術の深い結びつきを生き直そうとする有志の共同体である。本稿では、この団体の性格、目的、そして存在意義について、できる限り誠実に、かつ丁寧に記述する。
一、ベツレヘムという名前が持つ意味
「ベツレヘム」――ヘブライ語で「パンの家」を意味するこの地名は、ダビデの町として、そして何よりもイエス・キリストの降誕の地として、全キリスト教世界に知られる。神が人となり、飼い葉桶に身を横たえたあの夜の現実が、この小さな町の名前に永遠に刻まれている。
なぜ修道会の名にベツレヘムが選ばれたのか。それは偶然ではない。ベツレヘムは「へりくだりの場所」である。そこには王宮もなく、神殿もなく、律法学者の議論もなかった。あったのは、冷たい夜と、動物たちの息吹と、飼い葉桶に眠る幼子だけであった。神は最も貧しい場所を選んで、最も大きな奇跡を成し遂げた。
IHSベツレヘム修道会もまた、この精神に倣おうとする。壮麗な組織でも、権威ある機関でも、世に認められた団体でもなく、小さく、静かに、しかし確かに、信仰と創作の場として在ること。これが「ベツレヘム」という名の根底にある志向である。飼い葉桶から始まった救いが世界を変えたように、小さな創作の営みが、信仰という炎を静かに灯し続けることを願って。
二、芸術団体としての本質
IHSベツレヘム修道会を理解する上で最も重要な点は、この共同体が芸術団体であるということだ。宗教団体ではあるが、その活動の主軸は祭儀や礼拝の執行にあるのではなく、創作と表現という行為を通じた信仰の深化と伝達にある。
芸術と信仰の関係は、キリスト教の歴史において常に中心的な問いであった。ビザンティンの聖画(イコン)は、単なる装飾ではなく「色によって書かれた神学」であると言われた。ゴシック大聖堂の尖塔は、言葉では表現し得ない「高みへの渇望」を石によって表現した。ポリフォニーの教会音楽は、「沈黙の手前にある最も豊かな言葉」として神学者たちに評価された。バッハの『マタイ受難曲』は、一つの神学論文よりも多くの魂をキリストの御前に連れてきたかもしれない。
芸術は、論理が届かない場所に届く。理屈が硬直するところで、詩は息をする。概念が説明に疲れるところで、音楽は告白する。この事実を、IHSベツレヘム修道会は深く確信している。
だからこそ本会は、芸術を「信仰の手段」として位置づけるのではなく、芸術そのものを「信仰の一形態」として捉える。祈りが言葉を超えた対話であるように、真の芸術もまた言葉を超えた応答である。キャンバスに絵具を置く時、文字を紙に刻む時、音符を連ねる時――それらの行為はすべて、神への応答たり得る。それが意識的であれ無意識であれ、創造行為は創造主への回帰の動作を孕んでいる。
三、信仰復興と信仰創生という使命
IHSベツレヘム修道会は、その活動目的として二つの概念を掲げる。信仰復興と信仰創生である。これらは似て非なる概念であり、それぞれが重要な意味を持つ。
信仰復興――失われた根へ
信仰復興(renewal of faith)とは、すでにキリスト教の伝統の中にある者が、その信仰の根源へと立ち返ることを助ける営みである。現代の教会、特に西洋的文脈においては、信仰の世俗化、儀礼の形骸化、教義の希釈という問題が深刻である。長い教会の歴史の中で蓄積された神学的な知恵、霊的な伝統、そして芸術的な遺産が、現代においていかに軽視され、忘却されてきたかを、見る者は痛感する。
復興とは「新しいものを作ること」ではなく、「古いものを再発見すること」である。ニケア・コンスタンティノープル信条、カルケドン公会議の定義、教父たちの神学、修道制の霊性――これらは「時代遅れ」ではなく、時代を超えて有効な真理の表現である。IHSベツレヘム修道会は、創作という行為を通じて、これらの遺産を現代の言語で再提示することを目指す。
過去の信仰の遺産を掘り起こし、それを芸術という器に注ぎ直すこと。それが信仰復興における本会の役割である。
信仰創生――新しい土壌に種を蒔く
信仰創生(generation of faith)とは、まだ信仰を持たない者、あるいは信仰から遠ざかった者に対して、芸術と創作を通じて信仰の扉を開く試みである。
今日、教会の説教や宣教の言葉は、しばしば「信仰の内部の人々」にのみ届く言語で語られる。すでに信じている者への励ましとしては有効だが、信仰の外にいる者にはほとんど届かない。しかし芸術は異なる。美は、信仰を持たない者にも語りかける。感動は、理論的な議論に先行して魂を動かす。ドストエフスキーは「美が世界を救う」と書いた。これは誇張ではなく、芸術の人類学的な力に対する深い洞察である。
芸術を通じて信仰の入り口を作ること、創作物を通じて「この世界は意味を持つ」という直観を呼び覚ますこと、そして聖なるものへの渇望を静かに点火すること――これが信仰創生における本会の課題である。
四、宗教出版・メディア・コンテンツ制作という活動領域
IHSベツレヘム修道会の活動は、具体的には宗教出版、メディア、コンテンツ制作という三つの領域において展開される。
宗教出版
言葉は最も古く、最も耐久性の高い表現媒体である。書かれた言葉は、話し手が沈黙した後も語り続ける。パウロの手紙は二千年後もなお教会を養い、アウグスティヌスの『告白』は今も人々を神へと促す。本会は、神学的・霊的な文章の執筆と出版を重要な使命として受け止める。
対象となるのは、専門的な神学論文から、信徒向けの霊的読み物、祈り、詩、黙想文、評論、そして信仰と芸術の交差点を探求するエッセイまで多岐にわたる。それらは紙媒体においても、デジタル媒体においても、必要とあらば同時に展開される。
本会の出版物の特徴は、正統的な信仰への忠実さと、現代の読者に届く言語の探求の、両者を諦めないことにある。正統でありながら硬直せず、現代的でありながら軽薄でない――その張力の中に宿る言葉を生み出すことが、本会の出版的使命である。
メディア
二十一世紀において、信仰の伝達はもはや紙と説教壇だけに限られない。映像、音声、インターネット、ソーシャルメディア――これらは現代における「広場」である。パウロがアテネのアレオパゴスで語ったように、今日の宣教者は現代の広場において語ることを求められている。
IHSベツレヘム修道会は、これらのメディアを信仰と芸術の伝達の場として活用することを目指す。音楽制作、映像作品、ポッドキャスト、ウェブサイト、SNSを通じた発信――これらはすべて、現代における「パンの家」としての機能を担う可能性を持つ。テクノロジーは本質を変えない。十字架は十字架であり、感謝の祭儀は感謝の祭儀である。しかしその真理を伝える器は、時代とともに刷新されることが許される。
コンテンツ制作
コンテンツという言葉は、現代においてしばしば商業的な文脈で用いられる。しかし本会においてコンテンツ制作とは、より根本的な意味を持つ。それは「何かを産み出す行為」全般を指す。絵画、詩、音楽、映像、写真、デザイン、建築的考案――あらゆる創作の行為が、本会における「コンテンツ」の範疇に入る。
本会の会員は、それぞれの賜物と才能において異なる。ある者は文章を書き、ある者は絵を描き、ある者は音を奏で、ある者はデジタルの空間に構造を作る。それらの多様な表現が一つの共同体の中で響き合う時、単独の芸術家では生み出せない豊かさが生まれる。アンサンブルが独奏を超える瞬間があるように、共同体的な創作は個人的な創作を超える次元を持ちうる。
五、有志による非営利活動という在り方
IHSベツレヘム修道会は、いかなる宗教的権威機関からの正式な認可も受けていない有志非営利団体である。この事実は、本会を貶めるものではなく、むしろ本会の性格を正確に表すものとして誠実に開示されるべきものである。
認可なき自由と誠実さ
教会の正式な認可を持たないということは、本会が教会の権威に反するということを意味しない。本会はカトリックの正統的な信仰を基盤とし、教会のマジステリウムを尊重する。しかしその活動は、教会の制度的な傘の下でではなく、信者としての個人的な責任と自由において行われる。
カトリック教会の歴史において、認可された修道会や組織の外で生まれた霊的・芸術的な運動が、後に教会全体を豊かにした例は数多い。アッシジのフランシスコは最初、正式な認可なしに始めた。多くの芸術家、神学者、霊的著述家が、制度の外で始め、後に制度の財産となった。正式な認可は重要だが、それはすべての活動の前提条件ではない。
本会は、認可なき団体であることを隠さず、また認可があるかのような印象を与えることもしない。これは知的誠実さの問題であり、信仰者としての誠実さの問題でもある。
有志という言葉の重み
「有志」という言葉は日本語において、多少軽いニュアンスで用いられることがある。しかしその本来の意味は深い。「志を有する者たち」――それが有志である。本会の会員は、給与を得て活動するのでも、義務として参加するのでもない。信仰と芸術への志を共有することによって集まった者たちが、自らの時間と才能と資源を、この共同体の使命のために自発的に捧げる。
ここに、本会の脆弱さと強さが同時に存在する。脆弱さとは、経済的・制度的な基盤が薄いことである。強さとは、義務ではなく愛によって動く共同体は、外部の支援がなくとも内部のエネルギーによって持続し得るということである。愛から発する行動は、疲れを知らない。少なくとも、疲れを知っても立ち上がる力を持つ。
非営利という選択
本会の活動は、経済的な利益を目的としない。これは理想論ではなく、活動の根本的な方向性の問題である。信仰と芸術の統合を目指す活動が、市場原理に従属する時、しばしば本質が失われる。売れるものを作ることと、真実を表現することは、常に一致するわけではない。
非営利という選択は、本会の活動が「何が売れるか」ではなく「何が真実か」「何が美しいか」「何が信仰を深めるか」という問いによって方向づけられることを保証する。それは経済的な豊かさを諦めることを意味するが、別の豊かさ――使命の純粋さという豊かさを選ぶことを意味する。
六、普遍性という志向
IHSベツレヘム修道会は「普遍的な創作団体」であることを自らの性格として掲げる。この「普遍性」という語は、カトリック(catholicos=全体的な、普遍的な)という言葉の精神に連なる。
本会の活動は、一つの民族、一つの言語、一つの文化、一つの地域に閉じることを目指さない。信仰は本来、すべての文化と時代を超えて普遍的な真理に根ざしている。芸術もまた、真の芸術は特定の文化を超えて人の魂に届く力を持つ。この二つの普遍性の交差点に本会は立とうとする。
日本という土壌において活動しながら、イタリアの芸術的・霊的遺産に触れ、英語圏の神学的議論に耳を傾け、ラテン語の祈りの伝統を受け継ぐ――これは矛盾ではなく、普遍性の具体的な実践である。教会は一つであり、芸術は一つの人類に向けられている。
七、小さな始まりの神学
本会の現在の規模は小さい。有志が集い、志を語らい、創作の方向を確かめながら、少しずつ歩みを進めている段階にある。この小ささを恥じる必要はない。むしろ、この小ささの中にこそ、本会の可能性が宿っている。
からし種の譬え(マタイ13:31-32)において、イエスは「天の国はからし種一粒に似ている。それは種の中で最も小さいものだ。しかし成長すると、他の野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」と語った。これは量的な成長の約束ではなく、神が小さなものを通じて大きな働きをなさるという、創造の論理を示す言葉である。
IHSベツレヘム修道会は、この論理の中に自らを置く。今は小さい。今は少ない。今は弱い。しかし、種の命は種の大きさでは測れない。神は小さな場所から大きな業を始めることを愛する。ベツレヘムがその最も輝く証拠である。
結びに
IHSベツレヘム修道会は、完成した組織ではない。それは一つの問いであり、一つの志であり、一つの始まりである。信仰と芸術が本当に深いところで結びついているという確信、そしてその結びつきを創作という行為を通じて生き、表現し、伝えるという使命が、この共同体を支える柱である。
認可はなく、資金は乏しく、人員は少ない。それでも志がある。愛がある。創ろうとする意志がある。そして何よりも、この使命を最初に委ねてくださった方への信頼がある。
それで十分である。それ以上は、神がなさる。
飼い葉桶から始まった救いが世界を変えたように、小さな創作の共同体が、時代の信仰に一筋の光を灯すことができるなら、それ以上の望みはない。
イエスの御名において。IHS。
IHSベツレヘム修道会は、いかなる宗教機関・教会機関からの正式な認可も持たない有志非営利団体です。本会の活動はカトリックの正統的信仰に基づきますが、教会の公式機関ではありません。すべての活動は会員の自発的な参加と献身によって支えられています。

